能登宇出津の裕福な家に生まれ、金沢の女学校を出るも、いろいろあって半島に渡り、戦後身一つで引き上げ。
その後、祖父と結婚、と前半生は、NHK朝ドラのモデルとなってもおかしく無いような波乱に満ちたもののようでした。
ようでした、というのは、その当時の話をほとんど全く自分からは話さなかったから。
私にとって、祖母は、いつもやさしくて、朗らかで、私のことを「マコ」と呼んでかわいがってくれました。
そして、どこまでも前向きな人でした。
朝のTV体操を欠かさず、英語で書かれたお店の看板(ECHIGO-YAみたいな)も判らないのは情けない、と私にローマ字読みを教えてくれと言ったり、地元の高校が甲子園で勝ち進めば、祖父に野球のルールを尋ねたりもしていました。
1988年、当時私が留学していた北京に遊びに来た時のこと、案内した万里の長城では、タッタカタッタカと急斜面をものともせず先端まで行こうとする健脚ぶりに唖然としたものです。
私も数年前に四十の坂を越え、老眼とか「衰えの兆候」を感じずにはいられない歳になってしまいましたが、祖母の見せてくれた前向きさが、私の支えになってくれているような気がします。まだまだ、なんでも出来る、と。
亡くなる数日前、お世話になっている施設に顔を出した際、私の手を力強く握ってくれたのが、最後のお別れとなりました。
おばあちゃん、長いことありがとう。どうか安らかに。